僕のうつ病体験記中年期編 (2003年~2014年:45歳~56歳まで) 2016/12/18

重症でした。12年間くらいの期間です。精神障害手帳を持っていました。2023年6月、手帳を手放しました。睡眠はうまくとれないけれど、気にしません。


*序章 病休へ。

平成15年(2003年)4月 Y中学校に転勤(当時45歳)。

 1年担任、入学式、なぜかむしょうに疲れる。前任校があまりに少人数で、環境が変わりすぎたせいかもしれない。

 無秩序な3年生。2年生も理科室でやると教室を出ていく生徒もいた。1年担任40人の学級担任だった。頼みの仮説実験授業の評価が悪かった。これがショックだった。

 夜中、布団の中ですごい汗をかいた。妻が「汗をかきたいの?」等と言ってきた。授業前になると心臓がパクパク、すごい心拍。さらに、階段を降りる膝ががくがくした。

 平成156M医院を受診した。病休を決心した。

  妻が「あんなに勉強したのに!」という発言。そう僕は仮説実験授業とアドラー心理学にかなりの金額を投じて学んだのでした。

 「これでおしまいか?」というような気分。それまでがんばってきたのに。それでも、休みを利用してパソコン教室に通ったりした。その後を考えれば、こんな病状はたいしたことはなかったのです。


*いったん復帰へ

 8月に復帰。担任の負担を減らしてもらい勤務を続けた。対生徒は他の職員にやってもらって、陰の仕事をこなした。パキシルが効いてきたようだ。徐々に気分もよくなり、11日をこなすように仕事をした。

不眠がつづいたので妻と別室で寝た。ただ、その部屋はとても暑苦しい場所だった。

 不眠は続いたが、精神的には元気で、講座も積極的に企画した。不登校の生徒支援がうまくいったりした。 

翌年の卒業式近く、ひどい風邪をひいて寝込んでいたら脳も休まったのか睡眠が通常通りとれるようになった。

 平成16年(2004年)4

 年度が替わり、3年副担任、進路指導主任。仮説実験授業をあきらめた。今まで自分のアイデンティティーだったので、体調は戻ったものの何か頭がふらふらする感じだった。 

 強烈なアンケート結果(平成166月)

生徒の授業に関するアンケート、僕の理科がよくわからないが約半分、これが、延髄を刺すような感覚。冷静に考えれば、定期テストではまあまあの平均点をとっていたのでそんなの気にする必要はなかったのかもしれない。

長く仮説をやって子どもの支持を得てきたからなおさらショックだった。

 夏休みにとにかく研修に出かけた。NHKの話し方教室にも参加。懇親会で気の利いたことを言えたりした。とにかく研修熱心だと自分でも思う。8月、HG合宿講座でP博士のカウンセリングも受けた。が、なんかわかってもらえない感じだった。 


*再び病休へ

  97日 再びM医院から診断書を書いてもらい病休に入った。

 1223日、無理に復帰したが、体が重い。授業をやっとやる。階段を踏み外し足首を痛めたりした。べっこう飴をやってもいっこうに楽しさがわいてこない。背中が重く動くのがやっと。

部活(卓球部)で休日に車での送迎を頼まれたが、胸がどきどきしてしまう。妻は「ただ、運転して行くだけじゃない」と言うがそれができない。なかなか他人には理解できないのだろう。主顧問に「僕がお金を払うからタクシーを頼んでくれ」という。主顧問は保護者に頼んでくれた。

 平成17年(2005年)

 年が明けて、がばっと起きてS病院に診察に行った。M先生だった。診断書を書いてもらい病休に入った。M先生は「うつは生き方なんです。」と言った。パキシルを限界値まで出しているという。薬局では出ている量を確認するため先生に連絡を取って薬を出してくれた。


*そう状態 これがまずかった。

 朝、起きたら頭がくらくらする。何とも言えない気分。足下がふらつく。タクシーを頼んで、運転手には診察中も待っていてもらった。

 どうも鬱状態から躁状態になった模様。

 心臓が急にどきどきして苦しい。あまりに苦しいので思わず病院に電話してM先生に「僕死なないですよね!」と叫んだ。先生は「うん、死なない!」と一言。

 心臓の働きがおかしい。何とか呼吸を整えて、心拍を押さえることもできた。

 Iマッサージ治療院へ行った。心臓のことを話したら、レーザーをかけてくれた。そのおかげで心臓が楽になった。そのことをM先生に話したら「僕らにもわからないことはいっぱいありますよ」と答えてくれた。

 布団に入らなくても大丈夫。直ったと思った。

 長岡のアロマセラピー店に行ってアロママッサージを数回してもらった。O接骨院にもかかって頭を冷やしてもらったりした。

 3月、復帰するかどうか先生に判断してもらう。先生は僕を見て「とうがたったようだ」と言ってくれて復帰を認めた。

 平成17年(2005年)4月 躁状態で復帰 2年副任

  しばらくは元気すぎるくらい元気だった。忘れる、薬のせいか昨日の記憶がなかったりする。

そう状態でやったこと

 中学と大学のゼミの同級会の計画をした。一人で全部やった。

 冊子を作った。中学生時代からの物理の疑問が解けた。友人に話したら感心していた。

 仮説の講座を1年間計画した。その後体調が悪くなりやめた。

 学校の行事で職業学習を提案した。僕のつてを中心に職業人を呼んでのクラスをもった。

安全主任で安全な避難経路を作った。教務室脇の廊下に教育相談校コーナーがあり、避難を邪魔していた。それをなんとかすっきりさせた。

 眠れなくてすごくたくさんの睡眠薬を飲んで眠っていた。東京に出かけて新しい都立大を見学したり、論理療法入門に参加したり、ゴールデンウィークには名古屋の万博に一人で出かけた。

 講座をも積極的に企画していたが、尊敬する心理I先生から自粛するように助言を受けた。

 調子にのって長岡に一軒家を借りて学びの館にしたいと思って妻に話したら「あーそんなこと言わないで! 今まで言ったことはみんなやってきたじゃない。」と言われた。 

 だんだんと腰痛がきた。M先生は「躁のあとは体がへこむんですよ。」と言った。「これを乗り越えれば復帰できるだろう」とも。

 夏休み、初日、学校に行ったら、なんか体中がおかしい。

 体中の神経が麻痺するような感じ。腰痛が激しく、まともに声を出せない感じ。横になっているしかない。時計の音もびんびん響いて不快。


*躁が終わると体が大変

平成1789日、また病休。

 とにかく横になっているしかない。やっと食事をとるが、砂をかむような感じ。

 しばらくして起き上がることができた。車も少しくらいなら運転できる。頻繁にIマッサージ治療院へ。4000円は痛いが、背に腹は代えられない。

平成1710月 無理やり復帰した。

 教室に立っていてもふらふらした。M先生は「そんなに気を遣いますかね」と言っていた。Iマッサージ師は「疲れだて、神経が疲れているんだ」と言っていた。そんな状態では勤務を続けられず、またまた病休となった。


*長い休職生活へ

平成18年(2006年)110日 病休。その後、長い休職生活になる。

 新年度、校長が代わったので、挨拶に行った。頭痛がする。

 三条スイミングスクールらんなんに時々行った。やはり頭が重い。

 寝ている部屋の夏はすごく暑い。

平成19年(2007年)も休職。

  脈拍が120くらい。心臓がパクパク。苦しい。ドカン、ドカンという工事の音が心臓に響く感じだった。主治医から専門医に診てもらうように言われ、心臓専門医に診てもらったが、異常なし。だが、頻脈。

パッと起きたら、意識が一瞬なくなり、倒れた。カゴのふちにあばらをぶつけ、激痛。あばらを骨折していた。

平成20年(2008年)も休職。

 眠れないと言って睡眠薬を増やしてもらう。夏、たくさんの睡眠薬を飲んでも眠れなかった。娘と、ドコモへ行ったが、テレビ画面を見ただけで、目の周りの神経が張り詰め、肩まで神経がはる感じだった。後に入院しても同じような症状だった。

 車の音が轟音のように響く。散歩して、車が近づくと車の音がとても大きく響く。

マッサージをしてもらってからの帰り、タクシーを頼んでもらった。歩いても10分くらいの距離である。Iマッサージ師も「歩いて帰ればいいじゃないか」と言われたが、とても苦痛に思えた。

音がとても不快なので、妻と下の娘と食事をしてもテレビを消してもらい黙って食べてもらった。通院で、妹が母親と一緒に僕を病院へ連れていくときも、母と妹がしゃべっていると音でつらくて黙ってもらった。

入院を考えたが、知人から「入院してもいいことはない」と言われ、躊躇していたが、思い切ってM先生に話して入院することにした。服を着替え、昼食をとり、しかし、隣人たちの異様な言動に困惑した。すぐに出たいと思い、家に戻った。形は日帰り入院だ。

 新潟いのちの電話がつながらなくて、他県のいのちの電話につないだ。言葉を聞こうとするが、疲れる。声が遠くになる。やっとの事で何とか会話をする。

 目は焦点を結ばず、テレビを見ても視聴できない。胸がいらいらし、いたたまれない。死にたい、体調が悪すぎて、とにかく死にたいと感じる。思うのではなく感じる。首をつれる場所はないか探す。階段を行ったり来たり。でもそんな場所はない。


*精神病院へ入院、そして教員をやめる決心。

 医学に活路を見いだそうと自ら電話をして主治医に入院をお願いした。平成20年(2008年)9月からS病院に3ヶ月入院した。 

 入院生活はつらかった。主治医は女医のA先生だった。音がつらかった。同室の人の音でもいらいらした。食事も周りの音に耐えられず、自室に持って行った。むかむかして看護師を呼ぶと、「何もできない」と言われ、ドクターからは「頻繁に看護師を呼ぶんじゃないよ」と言われた。

 あまりのつらさにドライヤーのコードで首を絞めた。首に跡ができるぐらいだった。看護師に見つかった。宿直の医師と面接して話したが理解されず、お仕置きを受けた。そのとき「最高レベル、家族にも連絡」とか言っていた。つらい体勢で固定されたのをぼんやりと覚えている。もうだめだと思った。医師は「こうして反省すれば、自信もつくだろう」と僕には理解できないことを言っていた。

 その体勢のときのことはほとんど覚えていない。よくわからないうちに観察室に移された。僕は独房のように感じた。


*観察室

 自傷行為をしたということで、身体を拘束された。手錠をかけられ、ベッドに縛り付けられた。なぜかそこで、初めは本当に食事がとれず、「食え」と言われたが、吐き気がして食べられず、そのうち食事を拒否するようになった。これで看護師を敵に回した感じ。当然、排便もないのだが「どうして出さないんだ!」と胸倉をつかまれた。しょうがなく「痔になったことがある。」などと言ったら、他病院の肛門科に行くことになってしまった。

 食事をとらない行為で、あくまで想像だが、消防士らしき人がきて、(なぜそう思ったたかというと「隊長、自分から言います」という声が聞こえたような気がしたから。)部屋が真っ暗な状態で「食事はいるか?」と聞かれ、

僕:「いらない!」

相手:「水は?」 

僕:「いらない!」

そして足首を小突かれたような感覚がした。

看護師からは「おめーなんか、一生死ねないぞ」とののしられた。心がとても弱っていたので、そのことが本当のことに思えた。とても恐ろしく感じた。夢か現実か妄想かわからない状態が続いた。

もっとも恐ろしい頭の中のストーリー。

 僕がスパイかなにかになって逃げまわっていた。そしたら、安全な核シェルターみたいなところにとどまり、何日もそこにいる。家の鍵を僕が持って行って、家族が家に出入りできない状態だった。中には次女、外には長女。次女が家で食事もとれない状態。長女が叫んだ「お父さん、どこにいるの。T子が何も食べていなくて老婆みたいになっているよ。早く出てきて、鍵を渡して。」僕は恐ろしくて、子供がかわいそうで、いたたまれない気分になった。

観察室を出されて病棟の部屋に戻った。

あとで妻に聞いたら、瞬きもしないでずっと目を開いていて、なにかしゃべっていたという。看護師が口に食べ物をいれて食べさせようとしたがうまくいいかなかったという。

食べないから便がでない。浣腸されるが、そのとき、激しい痛みが。看護師が「手元が狂った」「脱肛?」看護師が「肛門が出てきたから、戻したんだ」と話した。そして他病院の肛門科へ行った。看護師が「脱肛になっていませんか」 医師は「なっていない」と言っていた。

目から涙らしきもが出ていた。異常にまぶしく感じる。そのことをA医師に言うと、A医師は「あなたは細かいことがとにかく気になる人なの」と言って取り合ってくれなかった。またA医師は「これは、私の推測なんだけど、アスペルガーではないか」とも発言した。

病院では統合失調症の人とも交流した。「宇宙人が・・・」や「家族が殺しにくる・・・」などユニークな話を聞かされた。「すごくおいしいコーヒーがある。」といわれて部屋にお邪魔したら、各種インスタントのブレンドだった。彼らはゆったりと過ごしていて、僕みたいな不眠や、体のいらだちなどはないようだ。

 不眠がひどかった。眠れないとまた眠剤をもらいに行くのだが、それでも眠れずに朝までベッドで過ごした。それでも定時には朝食をとる。規則正しい生活を求められる。眠くて、眠くてしょうがない。足がだるい感じなった。入院期間、ほとんど寝なかったような感じがする。「3日寝ないと死ぬ」と聞いたことがあるがあれは嘘だ。後でN病院のT医師から「人間、寝なくても死なないんです。」と聞いた。

 病院に校長が来た。病休は3年まで。僕は仕事をやめる意思を伝えた。


*退院とその後の生活 

退院してから眼科へ行ったら「角膜がはがれていて、ばい菌がいっぱい」とのことだった。

 退院に当たって、自分が寝る部屋はなんとか音を遮るようにしてもらう計画をたてた。

 窓の二重サッシ、天井に遮音材を入れる工事をするとき、実家に一時避難。そのとき母親はこたつに寝るようにしてくれたが、ダンプが前の道路を通ると、その音で、とてもつらかった。昼食もみんな黙って食べていた。

眠くて、これで眠れるかな と思ったら 娘が戸をぱたんとしめる音がして、目が瞬く間に覚めてしまった。

 時刻表をみて踏切へ。僕の様子がおかしかったのだろうか?車の人が窓を開けて「電車来ないですね?」となぜか声をかけてきた。

通院し、主治医のA医師からは「眠れないのは眠る必要がないからです。」と言われた。苦しんでいる患者にそんなことを言うものじゃないと思う。睡眠薬を要求しても、薬がきらいなA先生は処方しなかった。僕の状況を把握していないような気がした。

つらい状況が続いた。何とかしたいと思い、知り合いのお父さんのM医師のところに、電車に乗ってやっと行った。音が響くと訴えた。M先生は、N病院のT先生を紹介すると言い、自ら紹介状を持って行ってくれた。


*退職、精神障害者認定へ

平成21年(2009年)116日からN病院へ行き、ここに通院することにした。

 音が響いて苦痛だった。睡眠がとれない。眠くて眠れるかなと思ったけれど、家族が戸を閉める音で脳が目を覚ます。三日くらい眠れずにいると頭もふらふら。睡眠薬を飲んでも、眠いのだが眠れず、体がいたたまれない。

あまりに不眠を訴えたら、強い薬をくれた。それを飲んだら一晩は眠れた。ネットで調べたら、<最強の睡眠薬>とあった。ほとんどの睡眠薬に致死量がないのだが、それだけは致死量があった。急にこわくなった。

平成21(2009)320日付で公立中学校を退職した。

*それから2

少しは落ち着いた。だが、車を運転しても、いらいら感がする。赤信号を無視して突っ走りたい感じ。落ち着いて運転できない。困っことだ。ときどき、布団に入っても、イライラ感がつよく、足をばたばたさせる。2時間くらいそういう状態で、それだけで汗をかく。


*回復期

平成24年、ボランティアで学童保育ができないかと知り合いの福祉施設のHさんにお願いした。だが、体調が悪い時もあったりした。結局、学童保育には行かなくなってしまった。

平成26年(2014年)

徐々に体が楽になった。6月に母が亡くなったが葬式等に出席できて良かった。10月に家族で佐渡旅行ができた。睡眠薬は飲んでもきかないのでやめることにした。


*復活の年

平成27年(2015年)が復活の年である。

元気になった。が、2時間くらいで目が覚める。睡眠障害は続いたが、元気になった。

家庭教師を始めた。アドラー心理学ミニ講座の企画を再開した。職業訓練を受けて日商PC検定3級に合格した。

長かった。が、復活した。人間には回復力があると信じていいと思う。



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